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部落差別

まず「部落差別」という表現は、現在、不適切な表現なのかも知れませんが、私が育った時代 その地区では、そう言ってましたので、ここでも、そう表現させていただきます。

私の育った地区には 部落差別が 根強く残ってました。

私自身は その地区の外れに 親が そこに 建て売り住宅を買い そこに 小学生残って頃から 実家を出るまで 20年弱 住んでいました。

当然 その建て売り住宅は かなりの 割安物件だったです。

私自身は 直接的には 差別を受けた事は なかったかと思いますが 就職試験の時は あったかも知れません。


その 部落差別は 歴史的に根が深く 太閤検知以降と思われますが「かわた(皮多)」と 呼ばれる身分(職業)の人が そこに住まわされてたそうです。

「かわた」とは 士農工商の下の身分で、えた、非人の「えた」に該当します。
「かわた」の呼び名は、後になって「えた」と 一般的に 呼ばれる様に なったらしいです。

「かわた」とは 皮革業や 家畜等の 解体業に従事させられていていました。

因みに「非人」とは 一般的には罪人です。

つまり「かわた」は 産まれながら 社会の最下層身分であり それから 逃れる事は 許されない身分なのでした。

想像通り 獣臭と言うのか 血生臭いと言うのかの 臭いが 身体に染み付いてしまいます。

私が小学生の頃「あそこに住んでる人は 汚らわしいから 一緒に遊んではいけません」と 親が子どもに言ってたのは その流れなのでしょう。

だからといって 明治以前、職業を変える事も 住む場所を変える自由は 当然 その時代なので ありません。

明治以降 四民平等の世の中になりましたが かわたと呼ばれる人々は 四民ではなかった為 名目上ですら 平等になれませんでした。

日本の帝国時代 1910年の日韓併合以降 朝鮮人は 奴隷として 強制連行で 日本に連れて来られました。

当時の状況下では 当然と言えば当然ですが 朝鮮人は かわたの居住区に 住まわされることが 多く発生しました。

それにより 部落差別と朝鮮人差別の 2つの差別が 同じ場所で 生まれる事になりました。

私の 子どもの頃 私たちは 日系3世の世代でしたが 爺さん婆さんの 1世の方は 日本語は 話せないのも 当たり前にあった為 地区内では ハングル語を日常的に 聞くこともできました(私に 何を言ってるのか 全然分かりませんでしたが...)。

戦後になっても 行政的に 都市開発は後回しになり 大阪市の隣の50万人都市尼崎にも関わらず、上下水道なども 今から30年位前になって ようやく完成した感じです。

その地区は 地盤も悪い為 雨が降ると ぬかるみ 床上浸水も すぐに発生し 衛生的にも 劣悪な環境が 長く続いていました。

差別に関しては 子どもの頃のイジメに始まり 結婚差別は言うまでもありました。

就職試験についても 企業は ブラックリスト的な物を 持っており 差別されてました。要は 能力があっても 合格しないシステムなのです。

当然 お金がないので 子どもたちの教育レベルも低く 1980年代でさえ 実感的には 高校への進学率は50%位で 大学への進学は ほぼ ありませんでした。

負のスパイラルから 抜け出せない環境なのです。


現在 令和の時代になり 少しずつ 部落差別は風化されて来ていますが その差別の影響を受け 生きている人がいる事も事実です。

就職が出来ない お金がない 教育が受けられない、この流れの改善には よほどの時間が 必要です。

私は歴史研究家ではないので、知ってる範囲で、記載させていただきました。

おろらく、私が知らないだけで、日本の中では、潜んだ差別がまだまだ残っていると思います。

よく YouTubeや ブログでは 誰もが投資などができ お金持ちになるるチャンスがあると 耳にしますが それが 現実的ではない人々が少なくないのも事実です。